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日本100名城

24. 武田氏館

25. 甲府城

続日本100名城

127. 新府城

128. 要害山城

Aランク(日本の100名城)

24. 武田氏館 (山梨県甲府市) 国の史跡

武田氏館は、甲斐国山梨郡にあった戦国時代の甲斐国守護武田氏の居館で、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)と呼ばれる。
1519年武田信虎(武田信玄の父)がこの地へ居館を移転し建設した、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となった武田氏の本拠地である。
1575年の長篠の戦いで敗北したことから、武田信玄の死後、後を継いだ武田勝頼が領国体制の立て直しのため韮崎に新たな城「新府城」築き、1582年には躑躅ヶ崎館から移転した。しかし、まもなく実施された織田信長による甲州征伐の結果、勝頼は建築途中の新府城に火を放ち廃城にし、その後、武田氏は天目山で滅亡した。
1582年の武田氏滅亡後、甲斐は信長の家臣川尻氏、そして信長死後は徳川家康が支配した。家康は躑躅ヶ崎館域を拡張し天守も築いたが、新たに甲府城が築城されると1594年にはその機能は廃止され、以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展した。
現在、跡地には武田信玄を祭神とする武田神社があります。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BA%91%E8%BA%85%E3%83%B6%E5%B4%8E%E9%A4%A8
写真のコメントはWikipediaや城址内の案内板の説明を参照しています。

取材:文子

 


現在は信玄を祀る武田神社となっている武田氏館跡。

甲府市藤村記念館で展示されていた武田氏時代の武田氏館の復元模型図。

武田氏館跡図。
現在神社となっている主郭部の南側には門はありませんでした。神社を造る際に南の石垣を崩して正門を造っています。

東側が大手門でした。

大手正面には惣堀(外堀)と土塁に囲まれた曲輪があったことが確認されています。
なお、大手前曲輪は復元し武田氏館跡大手門東史跡公園になっています。

大手前曲輪の北側土橋。

大手石塁。
大手門を守るために、その前面に築かれた防御用の石垣で野面積で積まれていたそうです。
これは武田氏滅亡後に積まれた可能性が高く、この下から武田氏時代の丸馬出の一部である三日月堀が発見されています。

西曲輪南虎口北門。
西曲輪は、信玄の嫡男・義信が結婚した際に、義信の新居として造られたものだそうです。

西曲輪北虎口南門。

南側に残る水堀。

25. 甲府城 (山梨県甲府市) 国の史跡

甲府城は、甲斐国山梨郡に築かれた平山城で、別名舞鶴城と呼ばれる。
武田氏滅亡後、家康は躑躅ヶ崎館を甲斐における支配的拠点としていたが、1583年に家臣の平岩親吉に甲府城の築城を命じたと言われている。
家康が関東へ移封され、豊臣系大名が甲斐を支配すると、甲府城の築城は本格化した。
江戸時代へ入ると甲府城は将軍家に最も近い親藩の城となった。1704年には甲府藩主・徳川綱豊(6代将軍家宣)が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保が甲府城を与えられ親藩以外の領地となった。柳沢吉保の嫡男が転封されると、甲斐は幕府直轄領となった。
明治に入り1873年に廃城になると、城内の建物の多くが撤去されてしまい、中央線の開通と甲府駅の開業により城跡は分断された。遺構は石垣や堀の一部だけとなっているが、戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、現在は、その一部が舞鶴城公園として復元整備されている。

 (Wikipediaより転載) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%BA%9C%E5%9F%8E
写真のコメントはWikipediaや城址内の案内板の説明を参照しています。

取材:文子

 


現在の城址公園図。

城の南側にある水堀。
当時の水堀が南側の一部だけに残っています。
ここに架かる「遊亀橋」は明治に入ってから架けられた橋です。

鍛冶曲輪門。
鍛冶曲輪と楽屋曲輪を結ぶ門で、明治初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査を元に復元しています。

中の門跡。
天守曲輪・本丸へ通じる門で、絵図には柵の門として描かれているそうです。

鉄門(くろがねもん)。
天守曲輪から本丸へ通じる南側の門です。
両側の石垣の状態は良好と評価され、解体修理は行われず補修工事のみが行われたそうです。

天守台。
城が建てられた当時の姿がそのまま残っているそうですが、実際に天守が建てられたかどうかは、はっきりしておらず議論が続いています。

ここからの天守台がカッコいい。

稲荷曲輪門。
稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門です。明治初年までは残っていたものを復元しました。

内松陰門(うちまつかげもん)。
屋形曲輪とニの丸をつなぐ門で、明治初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査を元に復元しています。

稲荷櫓。
城内の鬼門(北東)に位置することから艮櫓(うしとらやぐら)ともよばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物です。
明治初年まで残っていたことが古写真でわかっており、できるだけ当時の姿に復元したものです。

山手御門。
甲府城に三つあった出入口の一つです。
こちらは高麗門の山手門。

山手御門を通って、ここから南の城内に出入りできました。しかし、明治期に破却され、現在は中央線の線路で分断されています。
ここを整備し甲府市歴史公園となっています。

山手渡櫓門。

 

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